2012-07-20 第180回国会 衆議院 内閣委員会 第10号
福岡県では、明治の中期ごろから筑豊炭田の石炭を使用した製鉄所が操業を開始してまいりまして、北九州地区でありますとか筑豊地区の発展に伴い人口が増加する中で、利権獲得を図って多くのぐれん隊などがあらわれた。また、福岡地区や筑後地区においても、港湾事業、炭鉱事業等が栄え、同様に多くのぐれん隊等があらわれてきた。
福岡県では、明治の中期ごろから筑豊炭田の石炭を使用した製鉄所が操業を開始してまいりまして、北九州地区でありますとか筑豊地区の発展に伴い人口が増加する中で、利権獲得を図って多くのぐれん隊などがあらわれた。また、福岡地区や筑後地区においても、港湾事業、炭鉱事業等が栄え、同様に多くのぐれん隊等があらわれてきた。
これは物すごい技術でして、これができ上がりますと、多分、どうでしょう、今インドネシアのセレベス・マカッサル、スマトラ、ボルネオ、あの辺あたりには筑豊炭田の七倍とかいうところが、アッシュ三%以下の石炭というのが何も手つかずで残っている地域がありますので、あれを開発するなんということになって、今液化がもしそれで成功することになったら、石油とはまた違ったものになります。
宮田病院は、先ほど医師会長もお話しになりましたけれども、福岡県の北部で、福岡市と北九州市の中間にございますけれども、かつては筑豊炭田を有した旧産炭地そのものでございます。最近でこそ、九州トヨタ工場等の進出がございまして、若干の人口増と活性化が期待されておりますが、昭和四十年代の炭鉱閉山の傷跡のために高齢化率は非常に顕著でございまして、約二六%の高齢化率を示しております。
官営の八幡製鉄所がありまして、筑豊炭田を背後に控えています。釜山を始め朝鮮半島はすぐ近くです。関西の方に出稼ぎに来た朝鮮人の人たちは、まず行った先が被差別部落の出身の方がおられるようなところに同居するような形で、最初から差別構造に組み込まれていきました。しかし、北九州の場合は比較的、日本全国から日本人も出稼ぎに出てきたような面がありますので、関西に比べれば差別意識は非常に少なかったかと思います。
私は筑豊炭田の出身でありますが、三十年代に石炭がなくなりました。そのときに大量の失業者が出るわけでありますが、大量の失業者とその家族が大量に移動するんですね、関西や関東に夜汽車に乗って移動するのでありますが、これはぜひとも大牟田ではそういうことがないように、さまざま質問がありましたが、ぜひ御奮闘をお願いをしたいと改めてお願いをする次第であります。
後ほど、いわゆる訓練所問題なども一、二聞きたいと思いますが、関連して、私の経験を申し上げますと、先ほど、午前中の委員の方の御質問がありましたが、私は筑豊炭田の出身でありまして、朝に夕に石炭がつぶれまして、大量に労働者が移動した悲しい現実を体験をいたしております。この実態を政府で何とかしようということで、いわゆる四つにわたる失業対策制度をつくってきて、それも終息に向かっている状況ですね。
ぐるぐる回るレコード式の録音しかなかった時代ですが、そういうものを持って筑豊炭田の炭鉱の皆さんのところにお伺いしたときにそういう情景に接しまして、放送がいかに国民生活の中にしみ通っているものであるか、またしみ通ってなければいけないものであるかということを実感しましたので、さる新聞記者さんのインタビューに答えたのがその文章でございます。 初心は全く忘れておりません。
私も筑豊炭田の中で生まれて育ってきたわけでありますが、昭和三十年代、あしたに一山、夕べに一山、炭鉱が次々に閉山をいたしまして、大量の労働者とその家族が京阪神に向かって大量に移動するという悲劇を味わってきたわけであります。
私は、筑豊炭田の出身でありまして、石炭政策については人ごとではなく、人一倍深い関心を持っております。そうした立場から、炭鉱労働者等の雇用の安定が図られますよう、産業政策と密接な連携をとりながら、地方公共団体とも緊密な協力関係を保ちつつ、今後とも全力を挙げてまいりたいと存じておる次第であります。よろしくお願い申し上げます。 ありがとうございました。(拍手)
その中で石炭、特に国内炭の位置づけの問題でございますが、私も実は北九州重化学工業地帯、筑豊炭田をバックにいたしました出身でございまして、日本経済発展の大変恩恵を受けてまいりました者でございます。大臣も常磐炭鉱で有名な福島の御出身でよくおわかりと思うわけでございます。
産炭地域の財政再建団体といいますか、財政が非常に苦境に立っております市町村でございますが、私も特に筑豊炭田を回りまして町の役場を見ましても、みんな木造の大正時代に建てたような本当に廊下がぎしぎし鳴るところなんですよね、もう別世界に来たんじゃないかと。
今、合馬先生からふるさと筑豊炭田のお話がございましたけれども、まさに戦後の日本経済復興のエネルギーの原動力としての筑豊炭田の果たした役割を、私どもは永遠に忘れてはなりません。しかし残念ながら、国際化時代が急速に進んでおる中で、国内炭と海外炭の価格差は広がるばかりであります。
○渡部国務大臣 筑豊炭田の現況については、私ども、先生今御指摘のような問題、いろいろ心配しております。したがって、通産省としては地域振興、また、これに今日まで関係して働いてこられた皆さんのことを十分に考えて、今回、産炭地域振興実施計画、これを立てたわけでありますが、この実効性の確保については、平成二年十一月の産炭地域振興審議会答申及び産炭地域振興基本計画にも述べられてございます。
先生おっしゃられるように、かつては筑豊炭田がまさに戦後日本の復興の原動力としてのエネルギーを供給する役割を果たしていただいたわけでありますが、残念ながら時代の変化、また国際化の時代、内外炭価の余りにも大きな価格の差というような中で今日の状態を迎えておりますので、今後は新しい時代に、この前も話がありましたが、石炭の町から、石炭もある町というような表現もありましたけれども、これから新しい時代のニーズの中
いろいろな形で各般にわたって調査をされておりますけれども、さらには、私は筑豊炭田の旧産炭地に住んでおりますが、比較的同和地区の多い地区でございまして、いろいろ見聞きをしてきておるわけでありますけれども、そういうようなことも総合的に考えますと、教育、環境問題、健康問題等々についてはやはり国民平均に比べてかなりの落差というか、格差があることはもう既に御承知のとおりであろうと思うわけですね。
それで具体的に浮かび上がってきたのが実は旧筑豊炭田の、旧産炭地における篠栗線という問題なんですね。これは当然運輸省と通産省との緊密な連携というものがなければできないわけでございます。 それで、私は分科会で質問したわけですけれども、同じ質問を今通産省にさせていただきたいと思います。どのような御感想でしょうか、この連携という問題につきまして。
○武藤国務大臣 繰り返すようでございますけれども、今もお話がございましたが、筑豊炭田を含めて、戦後の日本経済の歴史の中でそれぞれ炭鉱が果たしてこられた大変大きな役割というのは十分承知をいたしておるつもりでございます。しかしながら、時代の変化もございまして、あるいはエネルギー源の変化もあったことと思います、残念ながら中には閉山せざるを得なかったというところもたくさんあるわけでございます。
○三原委員 私の生まれ育ったところ、隣にお座りの麻生先生もそうですけれども、筑豊炭田という一時期は日本のエネルギーの大半を担ったようなところから私どもは出させていただいておるのです。地元は一生懸命努力をしておりますけれども、残念ながら、今は昔日のような栄光を求めてもなかなか簡単にいかない事情であります。きょうは、その旧産炭地の振興のことで少しお尋ねしたいと思うわけであります。
そこで、今高島炭鉱の地域は松島炭鉱の池島があって、これは西彼杵炭田というのですが、このポテンシャルは今までの調査の結果でも筑豊炭田を上回るポテンシャルであるというのが大体常識化されているのではないでしょうか。同時並行的にやった三池炭鉱の調査の結果も佐賀寄りに非常に有望な炭田が全部調査済みで確認されておるわけです。
これは、炭鉱がつぶれまして、筑豊炭田で二十年になりますが、まだ膨大な石炭の後遺症の費用が要るのですよ。もうこんなはずはなかったと我々も思いますが、物すごく要るですよ。石炭予算の生産部門と後処理の分では、後処理がずっと多いでしょう。ですから、今北海道の炭鉱をどうするかとか高島炭鉱をどうするかというのは、町がなくなるわけですからね。地域経済をどういうように考えられておるのかというのが一つ。
と申しますのは、石炭が筑豊炭田でだんだん姿を消していってもう大体二十年たちますね。一向に浮揚の方向にいかないのですよ。もう二十年もたったからもう少し浮揚の方向にいきそうだと私どもも思いますけれども、この炭鉱地帯が全部いわば荒廃した後の後始末の金というのは物すごいものですよ。どの数字をとっても、私ども長い間政治家をやっておって全く寂しい思いがする、反省をする。